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34件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2015-09-03 第189回国会 参議院 経済産業委員会 第27号

市長は、二〇一五年八月十二日、最近です、南日本新聞社、事故に対する責任について、国策として進めてきた国が責任を持つべきである。  大臣大臣は八月十四だか十五かちょっとあれですが、これは日経新聞でございますが、地方面でしょうか、愛媛県の中村知事中村知事は我々九三年衆議院当選同期組です。

荒井広幸

2004-03-23 第159回国会 衆議院 本会議 第17号

復員後は、先生青年団活動を経て、ペンによる祖国再建を願い南日本新聞社記者となられましたが、昭和二十二年、二十五歳、青雲の志をもって、鹿児島県議会議員選挙に立候補されたのであります。誰の目にも若輩と映り、立候補は無謀ともいわれたのでありますが、馬にまたがり山奥もいとわず演説を続ける熱意は確実に人々の心を捉え、見事に当選を勝ち取ったのであります。

小里貞利

1975-06-03 第75回国会 衆議院 公職選挙法改正に関する調査特別委員会 第8号

これは私が考えるだけではなくて、中部日本新聞社という新聞社で編集した「日本憲法の分析」という本がありますが、この二百十ページに、金森徳次郎という憲法制定当時の国務大臣でありましたが、この方がこういうことを言っております。以下引用ですが、「ぼくが法制局に入ったのは大正のはじめだけれど、選挙のあるごとに何とか委員会ができて案をつくって枢密院にもってゆく。

長谷川正安

1969-03-13 第61回国会 衆議院 議院運営委員会 第13号

参  考  人         (共同通信社論         説委員)    木津 睦夫君         参  考  人         (産業経済新聞         社論説委員)  今井 久夫君         参  考  人         (日本経済新聞         社論説委員)  前川 光男君         参  考  人         (東京新聞社・         中部日本新聞社

会議録情報

1969-03-13 第61回国会 衆議院 議院運営委員会 第13号

この際、人事院より国会に提出された営利企業への就職の承認に関する年次報告書に関連して、参考人として朝日新聞社論説委員熊倉正弥君、毎日新聞社論説委員長高橋武彦君、読売新聞社論説委員多田実君、共同通信社論説委員木津睦夫君、産業経済新聞社論説委員今井久夫君、日本経済新聞社論説委員前川光男君、東京新聞社中部日本新聞社論説主幹楓元夫君及び西日本新聞社論説委員宮崎政之君の人名の方々から、意見を聴取いたしたいと

久野忠治

1966-10-27 第52回国会 衆議院 内閣委員会 第4号

間もなく私は車で南日本新聞社へ参って、内外情勢問題等について報告をしておりました。そうすると、あなたの乗りましたオープンカーが、たくさんの隊列を整えながらあの市役所の前を通ってまいりました。私は、新聞社の二階からその姿を見ておりました。その中において新聞社の諸君が異口同音に言っていることばは、同じ国務大臣になるんだったら防衛庁長官にならなければだめだ。

村山喜一

1965-04-02 第48回国会 衆議院 法務委員会 第18号

坂本委員 一億二千万円の使途について告発状によりますと、約七千万円前後については、これは近江絹糸でその支出の処理に困ったから、新日本新聞社から広告料金をもらったということでやってくれというので、この近江絹糸の重役と新日本新聞社経理部長との間に第一期、第二期、第三期と分けて、第一期の三十三年から三十四年の五月三十一日まで、これは決算期ですが、この第一期には五千二百七十万五千七百四十五円出したことにして

坂本泰良

1965-02-27 第48回国会 衆議院 予算委員会第三分科会 第6号

私の郷土の鹿児島の南日本新聞社からも久保編集局次長が約二カ月にわたりまして中国各地を訪問いたしました。その各地における記事を次から次に読者に届けてまいったのでございますが、東北地方を旅行して——旧満州地区でございますが、そのホテルに鹿児島県出身の中年の女性がたずねてきたというのであります。

村山喜一

1963-02-07 第43回国会 衆議院 社会労働委員会 第6号

と申しまして、昭和三十七年十二月十日、東海災害コントロールセンター準備委員会というものをつくりまして、この準備委員会の構成は、名古屋大学医学部長神田善吾名古屋大学医学部附属病院長青山進午、それから同じく分院長の橋本義雄教授高木健太郎、それから愛知医師会長服部銈三愛知外科医会長棚橋貞雄中部日本新聞社社長の与良ヱ中部日本新聞社常務取締役鈴木充、同じく取締役編集局長織田稔、同編集局次長

赤松勇

1960-08-31 第35回国会 衆議院 外務委員会 第2号

既往におきまして、日本赤十字代表として井上君が平壤に参りましたときに、やはりそういう規定はあったと存じまするけれども、日本新聞社の依頼ということで電報を打った、こういう事実、及び日朝記者交換の問題、この問題につきましても、朝鮮におきましては日本人の記者を十数名迎え入れまして、歓迎の態勢で国じゅうを見せて通信の自由を許した、こういう実例がございます。

岩本信行

1959-12-08 第33回国会 衆議院 災害地対策特別委員会 第14号

お手元に謹呈いたしました伊勢湾台風写真集、これはまだ一昨日中部日本新聞社がでかしたばかりでありますが、その前に、皆さんの委員会の御活躍ぶり、また、被災地のいろいろな状況、そういうことについての歴史的な記録と申しますか、その縮刷版が約五百八十ぺ一ジでできておりますから、これも後ほど各先生方にお届けしたい。

伊藤長光

1959-07-03 第32回国会 衆議院 商工委員会 第1号

○勝澤委員 そうすると、その問題はしばらく置くといたしまして、六月十八日に消団連の中村貞男氏外五団体が日本新聞社協会外新聞社独禁法違反として検事総長告発をしておるわけでありますが、これを知っておるかどうか、検事総長の方から連絡がきておるかどうかという点についてお尋ねいたします。

勝澤芳雄

1957-08-08 第26回国会 衆議院 法務委員会 第35号

名古屋高裁における会議には高木高裁長官吉村上席判事成田事務局長深井地裁所長浜田上席判事羽田家裁所長小久保上席判事堀高検検事長中條次席検事熊沢地検検事正、子原次席検事弁護士会から大畑、長尾、永井、野村、浦部、廣浜、高井、近藤の各弁護士、学界から名古屋大学柏木教授言論界から中部日本新聞社織田編集局次長が参加され、終日熱心に意見交換、が行われました。  

横井太郎

1952-07-16 第13回国会 参議院 地方行政委員会 第62号

恐らく今度又三大新聞を初め主張されましたものが全国新聞主張となりまして、ちよつと中部日本新聞社は非常にいい構想を発表いたしました。それはやはり公明選挙を展開いたしまして、あそこでは公正選挙という名前でやつておりますが、モデル地区というものを作りまして、それで模範の選挙を行わせる、全力を挙げるのであります。

牧野良三

1952-03-25 第13回国会 衆議院 法務委員会 第24号

この事実を将来にわたつて容認するにつきましては、その分に関する限りは一切日本法制に服しなければならぬという趣旨でございまして、言葉をかえて言いますれば、スターズ・アンド・ストライプスは日本新聞社との契約の結果、日本新聞社によつて日本読者に頒布される限りにおいては、日本新聞紙と同じ立場に立たねばならぬという趣旨を明らかにした規定でございます。

西村熊雄

1951-12-13 第13回国会 参議院 決算委員会 第2号

次の三百十九号、中部日本新聞社これは二十六年の四月の末に金額収納いたしました。次の三百二十号、今お話の出ました分については、契約を解除して、未納の使用料については督促中でございますが、只今カニエ委員からのお話のあつたようなことが実情でございまして、我々のほうも非常に苦慮しておる次第で、まだ入つておりません。

牧野誠一

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